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 2006年07月

2006年07月17日

掲示板、一時閉じます。それから、アンケートのこと。

驚いた人もいるはずです。
掲示板、エロサイトの書き込みで荒らされつづけたので、一時閉じることにしました。
米友さん、おーつかさんほか、またお会いしましょう。
管理者のMくん、毎日、エロサイトとの格闘、ほんとうにごくろうさまでした。しばらくは、安眠できますね。
さて。
「論座」で早稲田の改革についてのアンケートを求められました。以下のように書きました。

(1)ベストセラーに疎く、自己紹介がへた。大勢を前にカメラのシャッターを押すのが苦手で、不必要に群れたがらず、月2万円の食費で暮らす友人がいて、突発的な出会いを除いて恋愛とはほぼ無縁にちかい。下層や下流を自慢し、運動は見るからに不得手、自分の「壊れ」を楽しみ、ときに中野のまんだらけにあらわれ、ときに『監獄の誕生』に読み耽り、権威と差別に執拗に反発し、「他人には絶対言えないなにか」を心に封印するがゆえに、ことばや映像はもちろん身体や環境にいたるまで、従来にはない表現のあり方に激越な関心をいだく……これが、わたしのみるごく平均的な文学部生像です。作家やライターや編集者、研究者や活動家、劇作家やゲームクリエーター等が続々生まれるのは当然。ほんとうに驚くべきはここから「ごく普通」の会社員やフリーターが誕生しつづけていることでしょう。こうした人々がいなかったら、ニッポンの「ごく普通」はもっともっとむごたらしく保守化しているにちがいありません。わたしは、「文学部的なもの」の学部・大学を越えたさらなる増殖、をくわだてたいと思います。
(2)「文学部的なもの」をめいっぱい体現する愛すべき学生、教員の居場所を奪う改革でないことをねがっています。

加藤典洋さん、石原千秋さんらが、学生は勉強しないと怒っているのに対し、正反対のことばを連ねました。もちろん、本心です。うそではないのですよ。
じつはこのことば、土曜の夜の文学史の講義のクラスを思いうかべながら、書いたのでした。土曜の夜というのに、大教室がいっぱい(260名)。みんなよく話しに参加してくれるので、ぼくは、いつもはりきりすぎてしまう。とくに、前から4列ぐらいの、およそ50人ぐらいの人々のいきいきとした表情に反応していたのでした。
ところが。
先週は教場レポートでした。総まとめとして、ぼくは、林達夫の「デカルトのポリティーク」について話をしようと、意気揚々と部屋に入っていきました。
なにかいつもの雰囲気とちがう。なんだ、この空気は。部屋を見渡した。すると、いつもの50人が、一人を除いて消えうせ、まったく見たことのない学生たちがすわっているではないか。その人に聞くと、「前にいた人たちみんなもぐりだったんでしょう」という。君だけはちがったんだというと、「いえ、わたしももぐりです」。
さて。
してみれば、アンケートに答えて書いたぼくのことば、まちがっていたのでしょうか。それとも。
しかしなあ、いったいあの人たちどこからきたのでしょうか。そういえば、ここ5年ばかりずっと、しずかに座っていた人もいたなあ。
うれしいような、かなしいような。

真山仁『バイアウト』の書評(北海道新聞他掲載)

経済小説の魅力は、経済に関る個人または企業の「成功」や「成就」にではなく「失敗」や「破滅」にある――城山三郎の初期小説、「ある倒産」、「総会屋錦城」、「輸出」などから経済小説の愛読者になったわたしの確信である。
 いい気な経営者サクセス・ストーリーや堂々たる社史、楽しいサプライズ広告や必ず儲かる株式指南書が氾濫するなかで、そうした「明」に隠された「暗」を経済小説は暴露する。
 すぐれた経済小説は、経済をめぐる集団の争いをとらえ、広い社会的視野を確保しつつ失敗と破滅に行き着く物語をとおし、社会批判を遂行する、といってよい。
 経済小説界の新鋭真山仁の新刊は、タイトルどおり、このところ話題をあつめる「企業買収」をあつかう生々しく、スケールの大きい、そしていくつもの「破滅」と「堕落」とがおりかさなる物語になった。
 アメリカ最大の軍産ファンドの会長、日本の新興電機メーカー・シャイン社長、有数の総合電気メーカー・曙の社員、企業再生のプロ……そして物語の主人公である外資系ファンド(世にいう「ハゲタカ・ファンド」)会長の鷲津政彦。これら主要登場人物が同時進行的に活写されるスリリングな「序曲」からはじまり、「日本という国が成長するために封じ込めてきた全ての罪を背負っている会社」である紡績が異者鈴紡の買収劇(第一部)が、ついで、「歴史と伝統に寄りかかり……殿様商売をしてきた」曙電気をめぐるTOBすなわち敵対的買収(第二部・第三部)がえがかれる。
 旧企業の腐敗、経済の「闇」を封印しようとする政治の力がつぎつぎに暴かれ、また、外資系ファンドの非情な戦略も明かとなる。関った者たちは皆深く傷つき、最終的な勝者はいない。
 「日本をバイアウトする」と言い放ちながら、「金が全ての世の中を憎悪し、資本主義なるものをぶち壊すことに血道をあげ」る鷲津の過剰なまでの存在感が、物語に激越な社会批判をもたらす。
 そして、随所に引用された坂口安吾の『堕落論』の言葉は、破滅と堕落をくぐった人の生だけが暗くかがやくことを、端的に指し示している。