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 2006年03月

2006年03月26日

卒業式でした

昨日は、卒業式でした。
大学でいつも顔を合わせていて、いないことなど想像できないような人たちが、今日をかぎりにこの空間から消えていくことの不思議。
最後にちょっと話した、YAさんは暗い銀座のOLで、TUくんは花のフリーター、TAくんは福岡で悩める教員、……さあ、みなさん、新しい場所に、忽然と出現しましょう。
ああ、今年も桜の森の満開の下、惨劇の季節がやってきた。

2006年03月10日

図書新聞連載評論です。2006年3月11日号。

時代小説クロニクル・第十一回
じくじくと膿み、時おり傷が開き汚れた血が流れ出る
―――北重人の『蒼火』と『夏の椿』をめぐって              高橋敏夫

  「時代小説家」と時代小説家

 「人を斬るとは、己を斬ることだ。その傷は、十数年の歳月を代償にしても、少しも癒えない。いつもじくじくと膿み、時には傷が開き、汚れた血が流れ出るような気分になる。それに引き替え、倦むこともなく斬り続けるその侍は、いったい何者なのだ」。こんな問いかけをきいたら、もう、無視することはできない。――本紙の「二〇〇五年下半期の収穫」で、わたしは、読んだばかりの北重人(きた・しげと)の『蒼火』(文藝春秋)をあげた。
 あきらかにこの時代とかさねられた物語にあふれる商人嫌悪やにじむ孤立感、そして、時代小説の困難じたいに果敢に挑む点、「死ぬより生きる」を選びとり現在の時代小説主流の対極に位置していること等々を書きしるしながらたしかめたい。
 それには、前作の『夏の椿』(同)を開いてからにしよう……というのがよくなかった。
 『夏の椿』を読んだのは、昨夜である。
 『蒼火』の主人公、「人を斬るとは、己を斬ることだ」と断じる立原周乃介の登場にたちあい、その鬱屈の由来にふれ、そして、周乃介の生き方をなぞった甥の定次郎が無慚な最期をとげるのを知った。
 それじたいすばらしいできばえであるとともに、『蒼火』の世界が、いっそう意味深くなるのを感じ、わたしはおおいに満足であった。
 読みだしてすぐわたしを襲った、なぜもっとはやく読まなかったのかという悔いを、やがてこの満足がとおくにおいやった。
今年で五八歳の新鋭時代小説家北重人は、五六歳で出した第一作の『 夏の椿』からすでに時代小説の「大家」の貫禄を示していたことになるが、巻末の著者紹介で原題が『天明、彦十店始末』(二〇〇四年度松本清張賞の最終候補作)であるのを知り、わたしは、なるほどと思わないわけにはいかなかった。
 一九九九年に現代小説「超高層に懸かる月と、骨と」でオール読物推理小説新人賞を受賞した北重人は、『天明、彦十店始末』というタイトルで時代小説を書いたとき、おそらく時代小説家ではなかった。
 特別なジャンルとしての時代小説を書こうとつよく意識する「時代小説家」ではあったが、書くものがそのまま時代小説にしかならないという意味での時代小説家ではなかった、ということである。

   見つかった藤沢周平の「習作」から

 北重人は、北海道新聞のインタビューで「同郷(山形県)の藤沢周平さんのような作品を書きたかった」と述べている。
 つい先頃、その藤沢周平の、一九六〇年代前半に発表された作品の存在がはじめて、娘の遠藤展子によって確認された。
 生前、藤沢周平がけっしてふれなかった作品が、一三作品もでてきたのである。
 確認のきっかけになった「藤沢周平と大泉の会」の中心メンバーでロシア文学者和田あき子から、その一部をコピーして送ってもらった。
 一読して、わたしは、封印した藤沢周平の気持ちがわかるような気がした。もとめられて、これら「習作」をめぐる感想をあるところに書いた。
 たとえば、同じく老いた無宿者の帰郷をあつかう「木曽の旅人」(一九六三)と「帰郷」(一九七二)とのあいだには、あきらかに「時代小説家」から時代小説家への飛躍が認めらる。「木曽の旅人」の冒頭でこまかにえがかれた場所と時代が、「帰郷」ではすっぱりと切りすてられ、「木曾路を落日が灼いていた」という一行があらわれる。どのようにも可能な説明的記述から、これ以外ありえない、あるのはこれだけ、という描写へ……。
 北重人の最初の時代小説が、『天明、彦十店始末』から『夏の椿』へと変更されたのを知ったとき、わたしは藤沢周平の「木曽の旅人」から「帰郷」への飛躍を想起した。
 わたしが知るのはタイトルの変更だけで、内容の変更があるのか否かは知らない。しかし、タイトルの変更だけで充分のように思える。『天明、彦十店始末』としるす北重人にとって、時代小説は、時代と場所をあえて特定しなければならない特異な分野だったにちがいない。新人賞受賞の現代ミステリー作品に、北重人は「平成、……」というタイトルをあたえなかったのである。
 北重人の時代小説は、田沼金権政治の終わり、大水災や都市打ち毀しなどの異変がつづく「天明」と、人それぞれのかけがえのない生が塗りこめられた裏店「彦十店」とを背景に退かせ、甥の定次郎が命を賭け周乃介もまた思いを寄せる女の、しずかで凛とした、しかもどこかあでやかさを隠しきれぬたたずまいを、ひとこと、「夏の椿」とよんだとき、確実にその一歩をふみだしていた、といってよいだろう。

  シリーズものの常識に反して

 わたしは、『蒼火』からさかのぼって『夏の椿』を読み、『蒼火』がシリーズものの第二作であるのを知った。
 シリーズものは、なんといっても第一作がすばらしく、第二作目以降はしだいに出来がおちてくるのが一般的である。剣を遣う者が相手と生死を賭けて闘う時代小説では、とくにそういえる。
 まず、シリーズものの主人公にたえうる濃いキャラクターの、印象的な登場が第一作でなされてしまうこと。
 その登場があざやかであればあるほどよいのは当然だが、すると第二作以降の主人公の登場はおどろきをうしなう。「またか」といった印象をぬぐえない場合も多い。
 たとえば、直木賞を受賞した東野圭吾の『容疑者Xの献身』などはそのよい例である。もともとさしたる魅力のない物理学者湯川にしきりと表情をゆがませ、「ふたつの殺人」というユニークな思いつきを、「人間がこれほど他人を愛することができるものなのかと感嘆するばかり」という気恥ずかしい自画自賛で台無しにしてしまった物語からは、くたびれきったシリーズものという印象以上を読みとるのはほとんど不可能にちかい。
 つぎに、シリーズものの安定感とひきかえに、主人公の突然の失踪、そして死が不可能になり、そこから物語に緊迫感がなくなる。
主人公をどんな危機が襲っても、いずれその危機が去るのを読者は知っている。剣が不可欠のアイテムである時代ものにとって、こうした主人公の不死性は、現代もの以上に物語に弛緩をもたらすだろう。
 主人公をめぐるこの二点だけをあげただけでも、シリーズものの第二作以降はむずかしい、のである。
 しかし、北重人の『蒼火』は、シリーズもの第二作のむずかしさをまったく感じさせない。
 むしろ、第二作の常識をくつがえし、第一作であざやかに登場した主人公周乃介をめぐるいっそう不安定で、深く、スリリングな物語を出現させている。

   追われる殺人者、追う殺人者

 江戸で商人殺しがあいつぐ。
 その執拗さからして、商人にはげしい憎しみをいだく者の仕業にちがいない。
 刀剣の仲介と一刀流道場の師範代、それに万(よろず)調べ事談じ事をなりわいとし、彦十店に住む立原周乃介は、人に頼まれ殺人者を追う。
 やがて、周乃介の前に、殺人者はその黒々とした姿をあらわす。こう紹介すれば、よくできた物語のひとつにすぎないのだが、『蒼火』の興味深いのは、黒い殺人者を追うことがそのまま、ほかならぬ周乃介のなかの「殺人者」をたちあげてしまう点である。
 殺人者を感じてすぐ周乃介の夢に「殺人者」があらわれると、たちまちそれは、白昼、周乃介をおびやかすものへとふくれあがる。
妾腹の子と蔑まれ荒れた無頼時代の周乃介が、はじめて人を斬り捨てた瞬間――「刃が首筋を薙いだ。首が半ばから傾き、血が二筋、帯となって吹き上げた。男は口を開け、愕いた目が青い空を見上げていた。/周乃介は呻いた。音、匂い、柄に伝わる衝撃の斬撃の感触がありありと甦る。/人を斬る一瞬の緊迫と、斬った後の悔悟が、血飛沫となって日々の隙間から噴き出す。周乃介は人を斬って、じつは自分の心も斬ったのだ。心の底で、黒い血溜まりが揺れ、それが時折、沸えて表に噴き出す。そのとき、心がひずみ、激しい痛みが奔る」。
 殺人者の狂気が周乃介をひきつけるのか、それとも追う周乃介の狂気が殺人者をまねきよせるのか。
 すぐれた捕物ものは、追う者が善で追われる者が悪といった、同時代の価値観、倫理観を拒む。追う者がいつのまにか追われる者になり、追われる者がやがて追う者となる。
 そのことによって、なにが善でなにが悪なのかを問いなおし、今とは別の生へ、別の関係へ、別の社会へと登場人物をさしむけようとする。
 『蒼火』もまたそうしたすぐれた捕物ものに属するとはいえ、かつてこれほどまでに追う者に宿る「殺人者」をひきずりだした物語があっただろうか。

  ひきつがれる机龍之助の彷徨

 それだけではない。
 商人を狙う連続殺人者和田新兵衛によってよびだされた周乃介の「殺人者」は、さらに周乃介の家族をめぐる血の記憶をほりおこす。
 いまは穏やかに隠居する父は、かつて周乃介の生みの母を斬り殺したのではなかったか。妻とつうじた商人を斬った新兵衛と同じく、父もまた「姦婦」として母を斬り、幼い周乃介はその惨劇の場にいあわせたのでは、という思いが周乃介を金縛りにする。
 連続殺人者の背後に「首斬り」という制度がひろがるように、周乃介がつなぐ「殺人者」の、はてしなき連鎖。これは時代小説の起源『大菩薩峠』が、冒頭の「理由なき殺人」によってあきらかにした時代小説の不可能性と可能性とをひきつぐだろう。
 時代小説を特権的なステージとした剣がもたらす狂気は、現代の暴力と破壊と戦争の狂気を凝縮して、わたしたちにつきつける。人を斬った者だけが背負う「蒼火」は、武田泰淳の『ひかりごけ』にもかさなり、わたしたちひとりびとりの背にも見え隠れしているにちがいない。
 『蒼火』のラスト、「蒼火」を背負った者同士の激しい斬りあいの末、新兵衛を倒し瀕死の重傷を負った周乃介は、揺れる戸板のうえで、「おれは死なぬ、生きる」とみずからに言いきかせる。
立原周乃介は、かつて大日本帝国の暴力と解放の空間でつづけられた机龍之助の彷徨を、ふたたび社会を巨大な暴力がおおいはじめた時代のただなかで、ひきつがねばならない。
 「いつもじくじくと膿み、時には傷が開き、汚れた血が流れ出る」、そうした彷徨を。
 『夏の椿』で時代小説の海に漕ぎだした北重人は、第二作『蒼火』で一挙に時代小説の底知れぬ深海に物語をしずめた。
 北重人の試みに目が離せないのは、けっして時代小説の読者にとどまらないはずである。