評論・論文・エッセイ

2006年09月15日

「グラフィケーション」連載の15回目です。

鬼があらわれ、時代がうごく
――――野火迅『鬼喰う鬼』における「迅速」さをめぐって
                                 高橋敏夫

 野火迅の物語の特徴は、まずなんといっても、その「迅速」さにある。
 スピード感あふれる稀有な文体が「迅速」さを演出しているのはたしかだが、むろん文体は「迅速」さそのものではない。人々のすばやいアクション、出来事の高速展開、ときてもまだ、野火迅の物語の「迅速」さの秘密にはとどかないだろう。
 おそらくそれは、奇異なるもの、異形のものの、有無をいわさない出現にかかわっていると、わたしには思われる。
 世界の全否定者と全肯定者のあらそいを果敢にえがき、埴谷雄高の『死霊』の時代小説版とでもいうべき傑作『仏鬼』を書いた野火迅の新作は、『仏鬼』以上に「迅速」さが顕著となり、物語の冒頭から、はやくも鬼の出現となる。
 貞元二年(九七七)の冬。深夜、郡司のもとに息せき切って参じた郎党が、初子の出産を告げた――。

その報に、郡司の否瀬俊兼は奇怪な反応を見せた。太い眉を逆立て、白く燃える目で宙の一点を睨んだ。その形相が、仕事机の傍らに立てた灯の火影に映り出た。郎党は、眉をひそめつつ、おずおずと祝辞を述べた。……だが、俊兼は一言も返さない。両手に持った木簡を無造作に投げ出して立ち上がると、無言のまま、異様に力のこもった様子で刀剣を佩いた。唖然となった郎党を尻目に、大股に館内を突っ切って庁舎の外に出た。あとを追った郎党が鞍の用意をするまでもなく、俊兼は、すでに裸馬に飛び乗っていた。蝦夷の血を引く俊兼は、裸馬をまったく苦にしなかった。(中略)
何かに憑かれたように馬を駆る一方、俊兼の頭は鋭く冴えていた。おのれが直面しつつある現実がいやというほど見えていた。
(生まれてくる赤子は、この手で殺さなければならない。殺さねば、わが身の破滅)

 鬼が出現した。もはや、だれにもとめられない。「迅速」さは、いかなる説明をも遠ざけ、出現の事実だけをもたらす。


 (この手で殺さなければならない)と言い、さらに(ようやく、生まれる。この時を待っていた。生まれた子を殺すために)と反芻する俊兼は、ふつうの時代小説ではじゅうぶんに鬼であろう。
人の常識を裏切る異様なふるまいと異様な形相、そしておそるべき言葉。しかも、それらひとつひとつが、かたわらでみまもる郎党のおどろきによって、いっそう奇異さをきわだたせられる。
とはいえ、いかにも鬼らしい俊兼は、しかし「鬼」ではない。 「鬼」は、物語がはじまる前に、すでに出現していた。郎党の告げた「初子」がそれである。
 だがしかし、「鬼」は、けっして俊兼と無関係ではない。俊兼だけではなく、おどろく郎党も、子を生んだ妻も、そればかりか遠く離れた都に住む藤原道長も、陰陽師安部清明も、台頭する武家集団も、圧政に苦しむ庶民も、あるいは……この時代を生きるすべての者が、「鬼」にかかわる。だとすれば、それらすべての者のかかわりそのものが、「鬼」をうみだすのではないか――有無をいわさず出現し、物語の「迅速」な展開によって、同時代の領野へまたたくまにひろがっていく「鬼」こそ、『鬼を喰う鬼』にえがかれた独特な「鬼」なのである。
 「鬼」といえば、わたしにとってはまず、馬場あき子の『鬼の研究』である。
 一九七一年、壊滅してゆく社会反乱への鎮魂歌のごとくあらわれた『鬼の研究』。鬼を「王朝繁栄の暗黒部に生きた人びとであり、反体制破滅者ともいうべき人びと」と端的に規定し、「過去の時代に跳梁跋扈し、またつぎつぎに消滅・誅戮の運命に服した鬼どもへの深甚なる哀悼追慕の挽歌」としての「中世における〈鬼の哲学〉」に、みずからをかさねた『鬼の研究』は、鬼どもの跳梁跋扈をつぎのようにえがく。
 「藤原道長が、『この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば』という大胆不敵な奢りの一首をものした時代、すなわち一条天皇の時代くらい、藤原一門の繁栄をよそに〈鬼〉の跳梁のめざましかった時代はない。しかも、かつての、延喜・延長の治世に、わずかに足跡を止めることによってしかアッピールを果たしえなかった〈鬼〉は、今はまさに堂々たる兇族に成長して、深夜の京洛を走り、山岳部に蠢動する。権門を守る勇武の名将は輩出し、頼光・頼信・保昌・維茂をはじめ、その身内の屈強な武者たちの勇名は、ことあるごとにところどころにとどろきながら、なおかつ〈鬼〉は現実に跋扈していたのである」。
 決然として精彩をはなつ、みごとな記述である。ここに、奇異なるもの、異形なるものの出現をもたらしてやまぬ「迅速」さの原型をみてもよいだろう。
 じっさい、『鬼を食う鬼』があつかうのも、この藤原道長時代の「堂々たる兇族」の跳梁跋扈である。兇族たちの「深夜の京洛を走り、山岳部に蠢動する」さまが、あざやかにえがきだされる。

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 しかし、『鬼の研究』が「鬼どもへの深甚なる哀悼追慕の挽歌」であり、鬼どもの跳梁跋扈にはかならず滅びゆくものへの深い哀惜がこめられていたのにたいし、『鬼を喰う鬼』にみちみちているのは鬼どもの壊滅への哀惜というよりは、むしろ鬼どもの出現への抗しがたい期待である。
 『鬼を喰う鬼』は、そのタイトルどおり、鬼を誅戮するのもまた鬼であるとして、鬼の断絶ではなく鬼のはてしなき連鎖、すなわち鬼の遍在をえがきだす。
 いわゆる「酒呑童子退治」のヒーロー源頼光こそ、じつは鬼の首魁酒呑童子(ここでは朱天童子)の子源雷光だったという、じつに興味深い読み替えをおこなったうえで――蝦夷をはじめ王朝に滅ぼされた先住民族から、従来の土俗的な鬼、修験道系や仏教的な鬼はもとより、賎民や盗賊などの人鬼、さらには独立しはじめた武家集団などをつぎつぎに「鬼」としてとりこむ。おそらくは、『鬼の研究』以後あらわれた、トポロジカルな鬼論、鬼=疫病説などをふまえつつ。
 物語の終わり近く、源雷光は、朱天退治の仲間、金時や太郎坊にむかって問いかける。「朱天童子は、いったい、何のために人の世に現れた。あやつは、都を燃やし、御所を盗み、拉した高家の上臈を喰ろうただけではないか。心も道もない、無情の天災のごときものじゃ。そもそも、人界と関る理由のなき者であろう。そして、その種を受けたわしとて、人界に関らざるべき者。……この戦は、人の世にとって何らの意味もなさぬ。この戦がもたらしたものは、修羅だけじゃ」。
 すると、太郎坊が言う。「天は、人の世を荒らすばかりではないぞ。人の世に何か大きな変革が起る時、その前触れとして、天には大きな異変が起る。その天変は、人力を超えた無情の力を及ぼして人の世の変革をうながす。それなる無情の力の現れ方は、様々だわ。人の姿をなした鬼というのも、そのひとつであろう。……その鬼とは、源雷光、なれであろう。……朱天を人界に送った天意は、朱天みずからも覚えなかったであろう。雷光よ、考えてもみよ。朱天が現れたからこそ、なれは生まれた。朱天が鬼の世をもたらしたからこそ、なれは、源氏の長となり当代一の武将とはなった。朱天は、なれが人の世に変革を起すための花神のごときものだわい」。
 太郎坊の導きによって、「鬼」のなにものかをつかんだ雷光は、源頼義にむかって言い放つ。「阪東へ行く。やれるものなら、武士の世を作る働きをしてやろう」。
 物語は、雷光の残す「阪東にて、源氏を待つ」という謎めいた言葉の揺曳を、義経のうちにみいだして終わる。
 だとすれば、太郎坊が喝破した「天」とは、「人の世」の従来の因果がもはや通用しなくなったときあらわれるまったく新たな「人の世」、いまだ「人の世」の姿かたちをもたない新たな「人の世」であることがはっきりする。「鬼」は、その「迅速」なる出現のうごきに、異形の姿かたちをあたえる。
 時代がうごき鬼があらわれるのではない。異形の鬼があらわれてはじめて、わたしたちは、まったく異なる領野へと時代がうごきだしているのに気づくのである。

2006年07月17日

真山仁『バイアウト』の書評(北海道新聞他掲載)

経済小説の魅力は、経済に関る個人または企業の「成功」や「成就」にではなく「失敗」や「破滅」にある――城山三郎の初期小説、「ある倒産」、「総会屋錦城」、「輸出」などから経済小説の愛読者になったわたしの確信である。
 いい気な経営者サクセス・ストーリーや堂々たる社史、楽しいサプライズ広告や必ず儲かる株式指南書が氾濫するなかで、そうした「明」に隠された「暗」を経済小説は暴露する。
 すぐれた経済小説は、経済をめぐる集団の争いをとらえ、広い社会的視野を確保しつつ失敗と破滅に行き着く物語をとおし、社会批判を遂行する、といってよい。
 経済小説界の新鋭真山仁の新刊は、タイトルどおり、このところ話題をあつめる「企業買収」をあつかう生々しく、スケールの大きい、そしていくつもの「破滅」と「堕落」とがおりかさなる物語になった。
 アメリカ最大の軍産ファンドの会長、日本の新興電機メーカー・シャイン社長、有数の総合電気メーカー・曙の社員、企業再生のプロ……そして物語の主人公である外資系ファンド(世にいう「ハゲタカ・ファンド」)会長の鷲津政彦。これら主要登場人物が同時進行的に活写されるスリリングな「序曲」からはじまり、「日本という国が成長するために封じ込めてきた全ての罪を背負っている会社」である紡績が異者鈴紡の買収劇(第一部)が、ついで、「歴史と伝統に寄りかかり……殿様商売をしてきた」曙電気をめぐるTOBすなわち敵対的買収(第二部・第三部)がえがかれる。
 旧企業の腐敗、経済の「闇」を封印しようとする政治の力がつぎつぎに暴かれ、また、外資系ファンドの非情な戦略も明かとなる。関った者たちは皆深く傷つき、最終的な勝者はいない。
 「日本をバイアウトする」と言い放ちながら、「金が全ての世の中を憎悪し、資本主義なるものをぶち壊すことに血道をあげ」る鷲津の過剰なまでの存在感が、物語に激越な社会批判をもたらす。
 そして、随所に引用された坂口安吾の『堕落論』の言葉は、破滅と堕落をくぐった人の生だけが暗くかがやくことを、端的に指し示している。

2006年05月08日

サンデー毎日・連載エッセイ、最新のものです。

活言剣皆伝                          高橋敏夫
   
 こんな悪い男みたことない――「半介は目下には十手を振りかざして威張りちらし、目上には実家をにおわせて横着に振舞いつづけた。この五年で捕まえた悪党もけっこういたが、強請り同然にたかった相手はもっといる」。
 しかし、半介を「悪」といえば、華麗で極彩色の「悪」や冷酷非情な「悪」が泣く。
 せいぜい、ちんけな男、しょぼい奴か。
 しかも、時代小説に登場する岡っ引き、御用聞、目明しのほとんどがこの手合である。
 権力嫌いの松本清張には薄汚い色欲のかたまりの「犬」で、庶民びいきの山本周五郎にとってはたんなる庶民いじめのサディストだった。清廉潔白な快男児は著名捕物帳の主役だけ。
 だが、このちんけでしょぼい半介、「筋違い半介」という小説のれっきとした主人公なのである。
 登場のしかたが、じつにいい。
「どうも風変わりな男である。
 風変わりなだけでなく、迷惑な男でもある。
 『筋のとおった話は、とにかく虫が好かねえ』
 なにが気にいらないのか、真顔でそんなことをいう」。
 半介は、徳川譜代の井伊家の血縁にあたる旗本の三男坊、家をとびだし勝手に岡っ引きになると、好き放題のわるさをくりかえす。
 だが、半介の言動から、武家も町人もそれぞれの「筋」をとおすことで、なんら楽しくない、ばかばかしいまでの社会を保守していることが、あきらかになる。
 筋をとおすのが嫌いな半介、しょぼいわるさはあくまでも助走で、実家を継いだ兄の突然の自裁をきっかけに、権力の醜い「筋」を寸断するところまで一気に突っ走る。
新らしい破格のヒーローの誕生、といったところだが、作者もまた筋違いなのか、半介はいまだ短編集中の一編の主人公にとどまっている。

2006年03月10日

図書新聞連載評論です。2006年3月11日号。

時代小説クロニクル・第十一回
じくじくと膿み、時おり傷が開き汚れた血が流れ出る
―――北重人の『蒼火』と『夏の椿』をめぐって              高橋敏夫

  「時代小説家」と時代小説家

 「人を斬るとは、己を斬ることだ。その傷は、十数年の歳月を代償にしても、少しも癒えない。いつもじくじくと膿み、時には傷が開き、汚れた血が流れ出るような気分になる。それに引き替え、倦むこともなく斬り続けるその侍は、いったい何者なのだ」。こんな問いかけをきいたら、もう、無視することはできない。――本紙の「二〇〇五年下半期の収穫」で、わたしは、読んだばかりの北重人(きた・しげと)の『蒼火』(文藝春秋)をあげた。
 あきらかにこの時代とかさねられた物語にあふれる商人嫌悪やにじむ孤立感、そして、時代小説の困難じたいに果敢に挑む点、「死ぬより生きる」を選びとり現在の時代小説主流の対極に位置していること等々を書きしるしながらたしかめたい。
 それには、前作の『夏の椿』(同)を開いてからにしよう……というのがよくなかった。
 『夏の椿』を読んだのは、昨夜である。
 『蒼火』の主人公、「人を斬るとは、己を斬ることだ」と断じる立原周乃介の登場にたちあい、その鬱屈の由来にふれ、そして、周乃介の生き方をなぞった甥の定次郎が無慚な最期をとげるのを知った。
 それじたいすばらしいできばえであるとともに、『蒼火』の世界が、いっそう意味深くなるのを感じ、わたしはおおいに満足であった。
 読みだしてすぐわたしを襲った、なぜもっとはやく読まなかったのかという悔いを、やがてこの満足がとおくにおいやった。
今年で五八歳の新鋭時代小説家北重人は、五六歳で出した第一作の『 夏の椿』からすでに時代小説の「大家」の貫禄を示していたことになるが、巻末の著者紹介で原題が『天明、彦十店始末』(二〇〇四年度松本清張賞の最終候補作)であるのを知り、わたしは、なるほどと思わないわけにはいかなかった。
 一九九九年に現代小説「超高層に懸かる月と、骨と」でオール読物推理小説新人賞を受賞した北重人は、『天明、彦十店始末』というタイトルで時代小説を書いたとき、おそらく時代小説家ではなかった。
 特別なジャンルとしての時代小説を書こうとつよく意識する「時代小説家」ではあったが、書くものがそのまま時代小説にしかならないという意味での時代小説家ではなかった、ということである。

   見つかった藤沢周平の「習作」から

 北重人は、北海道新聞のインタビューで「同郷(山形県)の藤沢周平さんのような作品を書きたかった」と述べている。
 つい先頃、その藤沢周平の、一九六〇年代前半に発表された作品の存在がはじめて、娘の遠藤展子によって確認された。
 生前、藤沢周平がけっしてふれなかった作品が、一三作品もでてきたのである。
 確認のきっかけになった「藤沢周平と大泉の会」の中心メンバーでロシア文学者和田あき子から、その一部をコピーして送ってもらった。
 一読して、わたしは、封印した藤沢周平の気持ちがわかるような気がした。もとめられて、これら「習作」をめぐる感想をあるところに書いた。
 たとえば、同じく老いた無宿者の帰郷をあつかう「木曽の旅人」(一九六三)と「帰郷」(一九七二)とのあいだには、あきらかに「時代小説家」から時代小説家への飛躍が認めらる。「木曽の旅人」の冒頭でこまかにえがかれた場所と時代が、「帰郷」ではすっぱりと切りすてられ、「木曾路を落日が灼いていた」という一行があらわれる。どのようにも可能な説明的記述から、これ以外ありえない、あるのはこれだけ、という描写へ……。
 北重人の最初の時代小説が、『天明、彦十店始末』から『夏の椿』へと変更されたのを知ったとき、わたしは藤沢周平の「木曽の旅人」から「帰郷」への飛躍を想起した。
 わたしが知るのはタイトルの変更だけで、内容の変更があるのか否かは知らない。しかし、タイトルの変更だけで充分のように思える。『天明、彦十店始末』としるす北重人にとって、時代小説は、時代と場所をあえて特定しなければならない特異な分野だったにちがいない。新人賞受賞の現代ミステリー作品に、北重人は「平成、……」というタイトルをあたえなかったのである。
 北重人の時代小説は、田沼金権政治の終わり、大水災や都市打ち毀しなどの異変がつづく「天明」と、人それぞれのかけがえのない生が塗りこめられた裏店「彦十店」とを背景に退かせ、甥の定次郎が命を賭け周乃介もまた思いを寄せる女の、しずかで凛とした、しかもどこかあでやかさを隠しきれぬたたずまいを、ひとこと、「夏の椿」とよんだとき、確実にその一歩をふみだしていた、といってよいだろう。

  シリーズものの常識に反して

 わたしは、『蒼火』からさかのぼって『夏の椿』を読み、『蒼火』がシリーズものの第二作であるのを知った。
 シリーズものは、なんといっても第一作がすばらしく、第二作目以降はしだいに出来がおちてくるのが一般的である。剣を遣う者が相手と生死を賭けて闘う時代小説では、とくにそういえる。
 まず、シリーズものの主人公にたえうる濃いキャラクターの、印象的な登場が第一作でなされてしまうこと。
 その登場があざやかであればあるほどよいのは当然だが、すると第二作以降の主人公の登場はおどろきをうしなう。「またか」といった印象をぬぐえない場合も多い。
 たとえば、直木賞を受賞した東野圭吾の『容疑者Xの献身』などはそのよい例である。もともとさしたる魅力のない物理学者湯川にしきりと表情をゆがませ、「ふたつの殺人」というユニークな思いつきを、「人間がこれほど他人を愛することができるものなのかと感嘆するばかり」という気恥ずかしい自画自賛で台無しにしてしまった物語からは、くたびれきったシリーズものという印象以上を読みとるのはほとんど不可能にちかい。
 つぎに、シリーズものの安定感とひきかえに、主人公の突然の失踪、そして死が不可能になり、そこから物語に緊迫感がなくなる。
主人公をどんな危機が襲っても、いずれその危機が去るのを読者は知っている。剣が不可欠のアイテムである時代ものにとって、こうした主人公の不死性は、現代もの以上に物語に弛緩をもたらすだろう。
 主人公をめぐるこの二点だけをあげただけでも、シリーズものの第二作以降はむずかしい、のである。
 しかし、北重人の『蒼火』は、シリーズもの第二作のむずかしさをまったく感じさせない。
 むしろ、第二作の常識をくつがえし、第一作であざやかに登場した主人公周乃介をめぐるいっそう不安定で、深く、スリリングな物語を出現させている。

   追われる殺人者、追う殺人者

 江戸で商人殺しがあいつぐ。
 その執拗さからして、商人にはげしい憎しみをいだく者の仕業にちがいない。
 刀剣の仲介と一刀流道場の師範代、それに万(よろず)調べ事談じ事をなりわいとし、彦十店に住む立原周乃介は、人に頼まれ殺人者を追う。
 やがて、周乃介の前に、殺人者はその黒々とした姿をあらわす。こう紹介すれば、よくできた物語のひとつにすぎないのだが、『蒼火』の興味深いのは、黒い殺人者を追うことがそのまま、ほかならぬ周乃介のなかの「殺人者」をたちあげてしまう点である。
 殺人者を感じてすぐ周乃介の夢に「殺人者」があらわれると、たちまちそれは、白昼、周乃介をおびやかすものへとふくれあがる。
妾腹の子と蔑まれ荒れた無頼時代の周乃介が、はじめて人を斬り捨てた瞬間――「刃が首筋を薙いだ。首が半ばから傾き、血が二筋、帯となって吹き上げた。男は口を開け、愕いた目が青い空を見上げていた。/周乃介は呻いた。音、匂い、柄に伝わる衝撃の斬撃の感触がありありと甦る。/人を斬る一瞬の緊迫と、斬った後の悔悟が、血飛沫となって日々の隙間から噴き出す。周乃介は人を斬って、じつは自分の心も斬ったのだ。心の底で、黒い血溜まりが揺れ、それが時折、沸えて表に噴き出す。そのとき、心がひずみ、激しい痛みが奔る」。
 殺人者の狂気が周乃介をひきつけるのか、それとも追う周乃介の狂気が殺人者をまねきよせるのか。
 すぐれた捕物ものは、追う者が善で追われる者が悪といった、同時代の価値観、倫理観を拒む。追う者がいつのまにか追われる者になり、追われる者がやがて追う者となる。
 そのことによって、なにが善でなにが悪なのかを問いなおし、今とは別の生へ、別の関係へ、別の社会へと登場人物をさしむけようとする。
 『蒼火』もまたそうしたすぐれた捕物ものに属するとはいえ、かつてこれほどまでに追う者に宿る「殺人者」をひきずりだした物語があっただろうか。

  ひきつがれる机龍之助の彷徨

 それだけではない。
 商人を狙う連続殺人者和田新兵衛によってよびだされた周乃介の「殺人者」は、さらに周乃介の家族をめぐる血の記憶をほりおこす。
 いまは穏やかに隠居する父は、かつて周乃介の生みの母を斬り殺したのではなかったか。妻とつうじた商人を斬った新兵衛と同じく、父もまた「姦婦」として母を斬り、幼い周乃介はその惨劇の場にいあわせたのでは、という思いが周乃介を金縛りにする。
 連続殺人者の背後に「首斬り」という制度がひろがるように、周乃介がつなぐ「殺人者」の、はてしなき連鎖。これは時代小説の起源『大菩薩峠』が、冒頭の「理由なき殺人」によってあきらかにした時代小説の不可能性と可能性とをひきつぐだろう。
 時代小説を特権的なステージとした剣がもたらす狂気は、現代の暴力と破壊と戦争の狂気を凝縮して、わたしたちにつきつける。人を斬った者だけが背負う「蒼火」は、武田泰淳の『ひかりごけ』にもかさなり、わたしたちひとりびとりの背にも見え隠れしているにちがいない。
 『蒼火』のラスト、「蒼火」を背負った者同士の激しい斬りあいの末、新兵衛を倒し瀕死の重傷を負った周乃介は、揺れる戸板のうえで、「おれは死なぬ、生きる」とみずからに言いきかせる。
立原周乃介は、かつて大日本帝国の暴力と解放の空間でつづけられた机龍之助の彷徨を、ふたたび社会を巨大な暴力がおおいはじめた時代のただなかで、ひきつがねばならない。
 「いつもじくじくと膿み、時には傷が開き、汚れた血が流れ出る」、そうした彷徨を。
 『夏の椿』で時代小説の海に漕ぎだした北重人は、第二作『蒼火』で一挙に時代小説の底知れぬ深海に物語をしずめた。
 北重人の試みに目が離せないのは、けっして時代小説の読者にとどまらないはずである。