大衆小説論2

<「怪物があらわれた、人が変われ」――言葉の怪物から戦争という怪物まで>


講義内容

大衆小説から大衆文化全般を扱いつつ、わたしたちじしんの怪物性について、考えます――。

ことのはじまりには、いつもかならず、「異なるもの」があった。
 神話の起源には「怪物」が見え隠れし、
 歴史の画期には「妖怪」の跳梁があり、
 また、人のはじまりには、子どもたちが大人には見えない「妖精」と、夢の中までひそひそ話をしている。

これら異なるものはすべて、従来の重苦しい秩序に走った亀裂であるとともに、新しい解放的な世界への不可欠の通路である。

必要とあれば、従来の秩序がこなごなにくだけちるまで、異なるものは姿かたちをかえあらわれ続けるだろう……。

感情から言葉、政治そして「戦争」(内戦)の怪物までをとらえたヴィクトル・エリセ監督『ミツバチのささやき』からはいって、近代の怪物論(フランケンシュタインの怪物・ドラキュラ・ジーキル博士とハイド氏・「モロー博士の島」の怪物たちなど)へ。

さらに、広津柳浪や江戸川乱歩のフリークスや宮沢賢治の愉快な怪物など、日本的近代におけるさまざまな怪物へ。

最後に、戦争という巨大な怪物があらわれつつある現在、それを生きるわたしたちじしんの、戦争を拒む新たな怪物性へ。

わたしやあなたのなかの怪物がうごきだすのを感じつつ、ときにはアルチュセールやフーコーやデリダ、そしてマルクスの「悪しき主体」「怪物」「亡霊」「妖怪」へのまなざしをからめ、具体的に検討します――「怪物があらわれた、怪物を殺せ」ではなく、「怪物があらわれた、人間が変われ」という見方を堅持しつつ。

わたしの「怪物」の定義はじつにかんたんである。すなわち――。

それがなんだかわからない(したがって、対処のしようがない)が、たしかにそこにいて、深刻な影響を及ぼしているもの。

講義はこの定義の解説からはじまります、こんなふうに。

1 それがなんだかわからない(したがって、対処のしようがない)――理解不可能・解釈不可能なものということであり、その出現はわたしたちの理解体系・解釈体系(共同体)の破産のきざしか、あるいは破産をあらわす。

2 たしかにそこにいて――実在をふくむ存在であり、それは姿かたち(イメージをふくめて)をもつ。

3 深刻な影響を及ぼしているもの――おそるべき怪物とおそれる者とはつねに接している。秩序の外からやってきてまた外へでていく、いわば絶対的な異物にたいし、人はおそれをいだくことさえできない。おそるべき怪物とおそれる者とは似ているのであり、おそれる者は、すでにいくぶんかはおそるべき怪物なのである。怪物は人への、人の内部からの警告にほかならず、したがって、わたしたちは、「怪物があらわれた、怪物を殺せ」ではなく、「怪物があらわれた、人が変われ」をえらばねばならない。

 

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授業の到達目標

「怪物」表象の考察を通して、文学・文化・主体の現在を明らかにする。

 

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授業計画

<まず、講義のトータルなイメージを>

 感情の怪物から政治そして「戦争」(内戦)の怪物までをとらえたヴィクトル・エリセ監督『ミツバチのささやき』からはいって、近代の怪物論(フランケンシュタインの怪物・ドラキュラ・ジーキル博士とハイド氏・「モロー博士の島」の怪物たちなど)へ。
 さらに、広津柳浪や江戸川乱歩のフリークスや宮沢賢治の愉快な怪物など、日本的近代におけるさまざまな怪物へ。
 最後に、戦争という巨大な怪物があらわれている現在、それを生きるわたしたちじしんの、戦争を拒む新たな怪物性へ。
 わたしやあなたのなかの怪物がうごきだすのを感じつつ、ときにはアルチュセールやフーコーやデリダ、そしてマルクスの「悪しき主体」「怪物」「亡霊」「妖怪」へのまなざしをからめ、具体的に検討します――「怪物があらわれた、怪物を殺せ」ではなく、「怪物があらわれた、人間が変われ」という見方を堅持しつつ。

<こんな、人の目に見えない動物も感じていたい>

死なない蛸萩原朔太郎
 ある水族館の水槽で、ひさしい間、飢えた蛸が飼われていた。地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻瑠天井の光線が、いつも悲しげに漂っていた。
 だれも人々は、その薄暗い水槽を忘れていた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思われていた。そして腐った海水だけが、埃っぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまっていた。
 けれども動物は死ななかった。蛸は岩影にかくれていたのだ。そして彼が目を覚ました時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢餓を忍ばねばならなかった。どこにも餌食がなく、食物が尽きてしまった時、彼は自分の足をもいで食った。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすっかりおしまいになった時、今度は胴を裏がえして、内臓の一部を食いはじめた。少しずつ、他の一部から一部へと。順々に。
 かくして蛸は、彼の身体全体を食いつくしてしまった。外皮から、脳髄から、胃袋から。どこもかしこも、すべて残る隈なく。完全に。
 ある朝、ふと番人がそこに来た時、水槽の中は空っぽになっていた。曇った埃っぽい硝子の中で、藍色の透き通った潮水と、なよなよした海草とが動いていた。そしてどこの岩の隅々にも、もはや生物の姿は見えなかった。蛸は実際に、すっかり消滅してしまったのである。
 けれども蛸は死ななかった。彼が消えてしまった後ですらも、なおかつ永遠にそこに生きていた。古ぼけた、空っぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――ある物すごい欠乏と不満をもった、人のに目に見えない動物が生きていた。

<怪物にたいするわたしの基本的なスタンス>

 宮部みゆきの傑作『理由』には、競売物件のマンションにいつのまにか住み込んでしまった「怪物たち」が登場します(結局みな静かに退場=死んでしまうのだが)。「怪物たち」に遭遇したある主婦は言う、「あの人たちは、なんだかとっても異様な人たちでした。最初から、普通じゃない雰囲気が漂っていました。まともじゃない………レベルが低いっていうか」。このような「普通」のまなざしが排除する「怪物たち」、それだけでわたしはこの「怪物たち」を深く愛します。もう一度くりかえしてみます。「あの人たちは、なんだかとっても異様な人たちでした。最初から、普通じゃない雰囲気が漂っていました。まともじゃない………レベルが低いっていうか」。そうそう、わたしが「あの人たち」だった気がします。

<怪物がいっぱい>

 「怪物」が歩きだした………最近の小説には、「怪物」がいっぱい。小説ばかりではなく、ゲーム、映像、マンガ等にも「怪物」はみちています。もう「怪物」ぬきでは小説が語れない、「怪物」なしには文化がなりたたない、そして、「怪物」を見定めないでは批評が成立しない、といってよいでしょう。そして、現在、街のいたるところに、「怪物」が出現しはじめています。わたしたちの社会と関係の「解体」「変更」のなかにしか生きる場をもたない、いきいきとした「怪物」たちが。

<怪物とはなにか>

「怪物」とはいったいなんなのでしょうか。「よくわからない」から「怪物」なのだけれども、いま、わたしたちのなかのいったい誰が「わたしは怪物ではない」と確信をもって言いうるでしょうか。あなたにとって、いちばん身近でしかも「よくわからない」ものこそ「あなた」であるとき、すでにあなたは「あなた」という「怪物」なのです。おそらくいま、わたしたちは「怪物」にむかってなだれおちていく時代を、生きています。あるいは、「怪物」に未来をみるしかない時代を生きています。「怪物」とは、「それがなんだかわからないが、たしかにそれはそこにいて、周囲をおびやかしつつある」という存在です。だから怪物という存在は、現在の解釈システムの無効性を告げており、わたしたちが「現在」にとどまりつづけることの不可能性を告げているのです。「怪物は未来である………」とわたしの大好きな花田清輝という批評家はいいました。そうなのです。

<さあ、「怪物とともに>

 さあ、「怪物」とともに歩きだしてみましょう。「あの人たちは、なんだかとっても異様な人たちでした。最初から、普通じゃない雰囲気が漂っていました。まともじゃない…」。だからこそ、このような「普通」の帝国に、わたしたちはとどまるわけにはいかないのです。
「怪物があらわれた、怪物を殺せ」ではなく、「怪物があらわれた、人間が変われ」。怪物を感じるわたしが、あなたが、変るところからはじめましょう。ただし、まがいものの「怪物」(しばしば宗教家の仮面をかぶっている)には、くれぐれも注意したいものですね。さあ。


<授業計画>

第1回 怪物とはなにか――導入として

a 怪物をめぐるアンケート
b いま、怪物とはなにか
c 怪物の3大要素について
d 「怪物があらわれた、怪物を殺せ」から、「怪物があらわれた、人間が変われ」へ。

第2回 怪物への視点をいくつか

a 怪物論概観
b 妖怪と幽霊 柳田国男の説を参考に
c 怪物論的視点によってのみみえてくるものについて

第3回 「敵」表象と「怪物」表象のちがい

a 命名の政治学
b カール・シュミットの「友・敵」論について
c エドワード・サイードの「オリエンタリズム」と「怪物」について
d ポスト・コロニアリズム的怪物
e 戦争と怪物

第4回 映画という怪物・怪物の映画1

スペインのヴィクトル・エリセ監督『ミツバチのささやき』を観る

第5回 映画という怪物・怪物の映画2

a 『ミツバチのささやき』のつづき
b 映画の解読から、怪物論へ

第6回 感情の怪物から、政治の怪物へ、そして「怪物の誕生」

a スペイン内戦とはなにか
b 五木寛之『戒厳令の夜』から村上春樹『海辺のカフカ』まで
c 三人のパブロ
d 理解不可能を自覚する少女、そこからのはじまり

第7回 列島の怪物をたどる旅へ

a 五木寛之『戒厳令の夜』『風の王国』からみえてくるもの
b 柳田国男の「怪物」
c 宮沢賢治の「怪物」

第8回 フランケンシュタインの怪物の到達点

『フランケンシュタインの花嫁』1933年の映画を観る。

第9回 フランケンシュタインからブレードランナーまで

a 近代の怪物たち――三大怪物からチャペック版ロボットまで
b フランケンシュタインの怪物論
c 「フランケンシュタイン」「フランケンシュタインの花嫁」
d 『ブレードランナー』における感情生成の物語

第10回 近代の怪物の特徴とは

a 「怪物」の描かれ方の共通性 b怪物はなぜ「醜い」のか
c ドラキュラ物語『吸血鬼ドラキュラ』『呪われた町』『ドラキュラ紀元』
d キングと小野不由美のちがい『屍鬼』他から

第11回 「戦争」という怪物・「民族」という怪物――ポストユーゴからイラクへ

a セルビアのスルジャン・ドラゴエビッチ監督『ボスニア』を観る
b 「戦争がはじまる……?」「そうだ」「なんだ、それは?」という会話をめぐって

第12回 ポスト冷戦時代の怪物を考える――その1「停滞」

a ボスニアものに共通する七つのこと
b 映画「アンダーグラウンド」のおそるべき「退屈さ」と映画「ボスニア」の「トンネル内での停滞」の意味

第13回 ポスト冷戦時代の怪物を考える――その2「子供」

a 「ボスニアもの」における子供という視点とはなにか
b 児童文学――大人もまた子供になってしまうという問題系をえがいた物語
c 戦争と児童文学という視点――小川未明
d サルトルの「戦争はわわれわれに似せてつくられる」をどううけとめるか

第14回 ポスト冷戦時代の怪物を考える――その3「エスニッククレンジング」「帝国」

a スラヴォイ・ジジェクによる解読
b 文明と野蛮の戦い
c アメリカ(戦争広告代理店)によって命された「エスニッククレンジング」とはなにか
d アンダーソンの「創造の共同体」と国民国家論。帝国主義という怪物
e 西川長夫の「民族という怪物」から
f 9・11からイラク戦争へ
g 「帝国」とはなにか

第15回 話のまとめ+教場レポート

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参考文献

怪物との出会い方をたしかるために・いくつかの参考文献

寺山修司『畸形のシンボリズム』(人文書院)

荒俣宏『怪物の友』(集英社文庫)

中沢新一『ポケットの中の野性』(岩波書店)

高橋敏夫『ゴジラが来る夜に』(集英社文庫)

 同 『ゴジラの謎・怪獣神話と日本人』(講談社)

 同 『理由なき殺人の物語』(廣済堂ライブラリー)

 

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評価方法

試験 0%
レポート 70%
成績評価においては、その成績をA+(優)、A(優)、B(良)、C(可)、F(不可)の五段階評価とし、C以上を合格とする。A+、A、B、Cについては、課題に対する理解度、独創的視点の有無、文章表現の巧拙を総合して判定する。
平常点評価 30%
出席回数は授業回数の三分の二以上を必要とする。
その他 0% 

 

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