« 再会! | メイン | 再開、再会 2013年7月22日 »

2012年01月29日

2012年初のメッセージ

今や「戦争のできる社会」 開戦70周年に思う
                   高橋敏夫(文芸評論家・早稲田大学教授)
                  時事通信配信・京都新聞、福島民報他掲載
                       2011/12/7他
        
 この12月8日は、太平洋戦争の開戦70周年にあたる。
 1941年12月8日の日本時間午前2時、日本軍はマレー半島に上陸をはじめ、同3時にはハワイ真珠湾空襲を開始。米への最後通牒は同4時過ぎとなった……。
 手元の平凡社編『昭和・平成史年表』からも確かめられる所謂「奇襲」問題だが、今こうした事実に関心をむける人はどれほどいるだろう。長い戦後の出発点となった1945年8月15日さえ体験はもとより記憶も遠くなり、それ以前の12月8日もまた同様に「風化」がすすんだ――すすんだはず、だった。
 しかし、今年は、遠い開戦と遠い敗戦(終戦)がきわめて近く感じられる。しかも太平洋戦争、さらには満州事変からの15年戦争総体へと「近さ」の対象はひろがる。
理由ははっきりしている。
 多くの生命と生活が失われた東日本大震災と、大震災からの復興を妨害し、広大な土地と海を放射能汚染し続けて、現在の生活と近い未来の生命を脅かす、フクシマ原発事故である。ここまで「戦争」になぞらえ語られた、巨大な出来事が戦後あったか。
 「敗戦」論が語られ、また、「戦争がはじまった」と喧伝された。
 前者は脱原発や反原発の論者によって戦後の原子力行政、原子力産業の暴走とその帰結を糾弾するため、後者は主に政府筋やマスコミから、大震災とフクシマを一緒にした上で出来事の甚大さをアピールし「オールジャパン」体制をつくりあげるために発せられた。前者は出来事の責任を明確にしようとし、後者は、「敵」と見立てた不可抗力の自然災害に責任を背負わせた。
 わたしはどちらかといえば「敗戦」論につらなるが、ここでは、比喩としての戦争ではなく、もう一つ重要な問題を提起したい。
 3・11が明らかにしたのは、わたしたちの「いまとここ」に現存する「戦争のできる社会」ではないか。
 戦後ながらくタブー視されてきた「戦争のできる体制」構築。それは、1991年の湾岸政争を契機に戦後初の自衛隊海外派兵となった自衛隊ペルシャ湾派遣、2001年の米国9・11事件直後の自衛隊インド洋派遣、2003年のイラク戦争に応じた自衛隊イラク派遣などの積重ねの上に、2004年の有事法制成立、そして2007年、ついに防衛省誕生をみた。
 可視的な「戦争のできる体制」に対し、「戦争のできる社会」は見えにくい。しかも中にいれば、ほとんど感じられることもない。
 わたしも編集委員として参加し、この夏刊行を開始した『コレクション 戦争×文学』(集英社)の『9・11 変容する戦争』には、在日イラン人女性作家シリン・ネザマフィの「サラム」がはいっている。9・11以後の「新しい戦争」下、入国管理局に収容されたアフガニスタン人少女の、死にも等しい強制送還をとおして、日本社会にひろがる排他的な力を直視する。快活で積極的な人権派弁護士でさえ、その力と無関係ではいられない。
 内部にいる日本人作家のほとんどが見ることも感じることもできなかった社会内部の変容を、「外」からのまなざしによって浮びあがらせた貴重な試みである。
かつて15年戦争時において顕著だった、社会内部の結束を固め「敵」をあぶりだそうとする「戦争のできる社会」づくりが、とくにこの10年、進んだのではないか。駅の「テロ警戒」「不審者、不審物注意」の張り紙にもそれはうかがえよう。
 こうした「戦争のできる社会」を背景として、政府とマスコミの一方的なフクシマ「安全」連呼を、一部から「大本営発表」と揶揄されながらも、多くの人々が受け入れた。そして、「安全」を疑う者を「デマによるテロリスト」として退けた。
 主流に従う事大主義や「オールジャパン」好きは、日本人固有の傾向ではなく、「戦争のできる社会」のあらわれである。問題はつねに、普遍的なものではなく、歴史的なものとしてとらえられねばならない。
 今後、さらに壊滅的な「敗戦」に至らぬために、わたしたちはくりかえし、かつての無謀な戦争を考え、戦争の放棄を決めた戦後の出発をとらえかえしたい。
 12月8日は、その恰好の契機となるだろう。